2012年01月28日

レッスン17回目

やはり体が硬い。
正月開けてからは、ほぼ毎日ストレッチしているのだが。
筋肉が増えてきたので、寒さに反応して硬くなってしまうのだろう。いや、単に年齢の問題?

それ以上に、色々考えることがあって、今ひとつレッスンに集中できず、順番は間違えまくる、気をつけるべきところに意識が行かないなど、メタメタだった。
基礎中の基礎、バスケで言えばパスとドリブルの練習をひたすらやっているだけなのに、ちょっと集中力を欠くと、体がついていかない。
いかに体を動かすことが、自律性・自己制御=意識による肉体のコントロールであるかが分かる。

先生にお叱りを受けると同時に、「まだまだ股関節が硬いねぇ」と言われる。
いや、以前に比べれば、よほど軟らかくなって筋肉も付いてきたはず。
しかし、軟らかくなった股関節や筋肉をまだ使いこなせていない、というのが実情なのだと思う。
どんなに道具を良いものにしたところで、それを使う術を知らなければ、「宝の持ち腐れ」になってしまうのと同じだ。

バレエでは体を鍛えて、テクニックを教わることはできるが、「いかに肉体を使いこなすか」までは教わらない。
センスがよい人や子どもの頃からずっと踊り続けている人は、自然と身に付けてきていることだが、私のように大人になってから始めるものは、腕とか脚といった大雑把なものではなく、もっと細かい部位の動きや構造を理解して、意識しながら効率的に動かしていかないと、踊れるレベルには到達できない。

これは、外国語の習得とも似ている。子どもは感覚と繰り返しによる暗記で、比較的容易に第二言語を習得できる(使う語彙が少ないこともある)。
しかし、大人になってからの第二言語習得は、(大概の人は)センスと感覚に頼ることはできず、論理的に言語構造と語彙を効率的に理解し、覚えていくほか無い。

自分でもいささか理屈っぽいようにも思われるが、自分の場合はどうやらピラティスで体幹を鍛えてバランスを高めると同時に、肉体に対する意識制御を強めていくことが、遠回しに見えても最終的には早道になるのではないだろうかと考える次第。
ニックネーム ケン at 10:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | バレエ日記

2012年01月27日

オレオレ詐欺に見る日本のジェンダー構造

「夫婦同姓は日本の伝統」などという話を聞かされる。
源頼朝の妻は北条政子、足利尊氏の母は上杉清子、その妻は北条(赤橋)登子、足利義政の妻は日野富子。夫婦別姓こそ日本の古式だった。
なお、平清盛の妻は時子だが、それは同じ平氏一門である平時信の娘で、同姓婚による。
仕事絡みなので一々反論はしないが、勘違いした年寄りほど醜いものはない。
同姓論者の圧倒的多数が男性であるのは、男性のイエに妻を従属させようという意識が強いからだろう。妻の名字が違うと、そこに独立性が感じられてしまうのが恐いのである。

鎌倉期に後深草院の女房が記した日記である『とはずがたり』には、主人公である二条が出家して諸国を旅した際、備後の山間にある地頭代の家に逗留した時のことが書かれている。
乞われるがままに書や画をかいていた彼女が、近隣に兄がいたことを思い出して、そこに移ったところ、出て行かれた地頭代が怒り心頭に発し、「長年使ってやった下女が逃げ出して、やっとのことで捕まえて引き戻したのに、兄と称するヤツが奪っていった。今度こそは打ち殺してくれる」と兵を集めた。幸いにして彼女は、たまたまやってきた旧知の地頭である広沢入道に救われて難を逃れた、という話である。
『とはずがたり』の凄まじいところは、最初に女房として仕えた後深草院に14歳で強姦されてから、次から次へと5人の貴族によって慰み者にされた挙げ句、アッサリ捨てられて追い出され、出家した点にある。
『源氏物語』を「任侠やくざ映画」とすれば、『とはずがたり』は「実録ヤクザ映画」くらいの違いがある。前者は創作で、後者は日記なだけに尚更だ(もっとも年代にして300年の違いもある)。
日本男性のジェンダー意識の根源を知るには最適の教材と言える。

団塊世代から上の女性に対する差別意識は、まだまだ非常に根強いものがある。
特に地方へ行くと、濃厚かつ直接的に現れる。
ボスの選挙区などに行くと、いまだに「女が政治の話に口を出すな」とか「お前は洗い物をしてろ」などという話がごくフツーに聞かれる。
鹿児島出身の中高の恩師は「僕が子どもの頃は、母や妹は土間で(男とは)別に食事してましたね」と回想しておられた。
もっとも、そういう環境だからこそ、一方で遣り手の女性は非常に「女傑」っぽくて凄いのだが。

こうしたジェンダー意識の表れの最たるものがオレオレ詐欺と言える。
2008年版国民生活白書によれば、2008年1〜10月の被害状況を見た場合、オレオレ詐欺は被害者の72%が女性であり、最も被害の割合が高い60歳代の女性が全体の30%、次いで70歳代以上の女性が29%となっている。

問題は犯行者の方で、その全員が男性なのだ。女性の振り込め詐欺というのは存在しないらしい。
これは「息子」が老母や老父に電話して、「金が必要だ」と言えば、躊躇なく出してくれるのに対して、「娘」が電話しても金を出してくれないことを示している。
それがたとえ何年、何十年と連絡して無くても、息子は大切な存在で保護すべき対象だが、イエから出て行ってしまった娘はすでに他人で、保護すべき対象ではないという認識なのだ。
言い換えれば、息子は死ぬまでイエの大事な一員であり続けるが、娘はハナからイエにとってどうでもいい存在だということになる。少なくとも、彼らの潜在意識はそう物語っている。

深刻なのは、高齢の母親が自ら進んで騙されまくっている点だ。
「息子」と聞いて慌てふためいて大金を振り込んでしまう母親の割合は、父親の2.5倍以上に上る。
寿命や生活環境が様々なので単純な比較には慎重になるべきだが、それでも騙される母親が圧倒的に多いことは間違いなく、父親は比較的厳しい、ないしは慎重なのだろう。
これは、日本の女性がいかに男性に依拠した存在であるかを示している。精神的に息子に依存しているからこそ、他人事とは思えず、その「苦境」を放置できないのだ。
言うなれば、ドメスティック・バイオレンスによって従属させられている夫と妻の関係の延長上にある。

オレオレ詐欺は、母と息子の共依存関係が無ければ成立し得ない。
それは、世の中に30代や40代になっても、「母ちゃん大変なことになったんだ、金貸してくれよ」と平気で言ってくる息子と、「お前それは大変だね、さぁこれをお使い」とアッサリ大金を差し出してしまう母親が、ありふれていることを示している。
中国や韓国では同様の詐欺があるらしいが、欧米、特に北欧や米英でそんな詐欺が成立するとは思えない。

話が飛び飛びで申し訳ない。
民主党政権は選択制夫婦別姓を導入しようとしたが、鳩山政権で挫折し、そのまま放置されている。
私は「いきなりそこから入るのは拙速では?」と疑問を呈したが、その危惧は現実のものとなった。
だが、民法改正も取調可視化も「夢」となりつつある現状を考えると、時には勢いに任せて強行することも必要なのかとも思えてくる。
せめて非嫡子差別の部分だけでも民法改正で解消しておけば良かったと悔やむばかりである。
日本を覆う闇は余りにも深い。
ニックネーム ケン at 12:59 | Comment(3) | TrackBack(0) | 恋愛、結婚、魔術

2012年01月26日

国会議員と機密

政治稼業において、いかに情報が重要で、特に秘書の諜報能力が議員の活動に大きく影響するという話はすでにした
ブログの読者の方の多くから、「機密情報にたくさん接する機会があるからこそ色々書けるんでしょうね」と言われるのだが、それは正しくない。
私の記事の中で、「機密情報がなかったら書けなかった」という内容のものは殆ど無い。

あるとすれば、党の内部事情や人事の話であって、それは国家機密ではない。
党にも機密はあるが、一年生議員であるボスが接することのできるものはなく、私が知るよしもない。
内部情報は、暴露すると経路を辿られてしまう恐れがあるために、私も生の情報は出さないだけの話で、これは機密と言うよりも楽屋裏の話に近い。

国家機密はもっと厳重なもので、そもそも国会議員が入手できる機会すら、なかなかない。
国家というのは、日本では立法、行政、司法からなるが、三権のうち機密情報を扱うのはもっぱら政府=行政であり、そこは政権党しか参画できない。
その政権党の中でも、行政の中枢に入るのは政務三役だけで、残りは立法府の一員という立場から動かない。
その政務三役にしても、情報を上げてくるのは、各省の官僚であり、特に必要がない限り、わざわざ機密情報を政治家に差し出す官僚はいない。
つまり、政務三役にしても、「ある」と分かっている情報があれば、「どうなっているんだ?!」と聞くことができるが、そもそも「知らない」ネタであれば聞きようがない。
そして、ヤクニンは政治家の無知をいいことに、できるだけ重要な情報は伏せるようにする。
まして、現在のように政務三役が一年おきに交替してしまうのでは、官僚はますます機密情報を隠すようになってしまう。

機密情報というのは、基本的に少なければ少ないほど隠しやすい。
逆に、機密指定を増やせば増やすほど、その隠蔽は困難になり、機密が守られなくなる傾向にある。
情報というのは、必要だからこそ入手されるわけだが、それを機密指定するということは、その情報を活用できる人が少なくなることを意味する。
しかし、必要な情報ほど、活用したい人は多いわけだから、機密が増えると、組織の活力=効率性が低下していく。
例えば、旧軍では、レイテやルソンでの戦況が極秘にされ、陸軍大臣にすらまともな報告が上がらなくなった結果、沖縄の防衛や避難準備が大きく遅れてしまったということがある。
そして、機密が増えると、機密部分をカバーするために、憶測で判断する人が増えるため、間違った情報や噂が流布することになり、二次被害が拡大していく。
ただ逆に、機密情報が少ないと、情報の隠蔽と守秘は容易だが、周辺情報からの類推が容易になるということはある。

従って、大臣秘書官や与党幹事長秘書を経験したものでも無い限り、秘書が機密情報に接するということはまず無い。
だが、官僚や大物議員あるいは大物秘書と懇意にしている秘書であれば、機密の一端を耳にする機会はある。
また、ある政策を勉強していくうちに、「おかしい」と思うところがあり、機密にぶち当たることもある。
しかし、それらが「機密」なのか「不確実情報」なのか、となると微妙であることが多い。
私が接した「機密」情報の一端を挙げると、

・1956年の日ソ共同宣言時には日ソ平和条約の草案がつくられていて、「二島引き渡し」で決着を付けることは確定していたが、米国の介入で日本側が反故にした。

・自衛隊のイラク派兵やインド洋での給油活動、ソマリア沖での警戒活動などでは、多くの自殺者が出ているが、その多くが事故死で処理されている。

・TPP締結をめぐる利害推計で経産省は、相当な統計操作を行って、都合の悪い(損する)データを排して、都合の良い(儲かる)データのみを計上した。

・福島では避難地域外でもまだまだ放射能の危険が残っており、会津を除くほぼ全県で、特に若い女性や子どもが住める環境にはない。

・青森県六ヶ所村に建設中の核燃料再処理施設の下には断層があって、さらに地下水が通っている。


などがある。
どれも機密であるが故に、口頭や傍証の情報でしかなく、私に確認する術はない。
一年生議員が官僚を呼びつけたところで、本当のことを言うものなどいないからだ。
しかし、様々な周辺情報や傍証をチェックすることで、私なりの確信を得ている。
ただ、難しいのはフクシマの話のように、データが少ないために、個々の官僚の多くは「やばいんじゃね?」と思っていても、組織として「絶対危険」とは断言できず、政治的判断で「福島は危険で人が住めません、とは言わない」と暗黙の了解を得ているケースも少なくない。
薬害エイズなども同様で、個々のヤクニンは「非加熱製剤はヤバいらしい」と思いつつも、「絶対ダメ」と言えるだけの材料が整わなかったがために、従来の方針を覆せなかったケースである。その場合、「非加熱製剤はヤバい」という意見や検証結果は隠蔽されてしまうのだ。
中でも特に酷いのが外務省で、連中は過去の機密指定の資料やメモを、平気で次々と廃棄し、シラを切る。存在自体が反国民的と言えよう。

日本型組織の弱点は、「御上無謬論」と「意見対立害悪論」である。
「御上の決定は常に正しい」という認識が、失敗や間違いを否定・隠蔽し、自らの経験としない点が一つ。
組織内部での意見対立そのものを悪とするため、「反対意見が出た」こと自体を封印して、「無かったこと」にしてしまうため、失敗した時に前の議論が活かされないという問題がある。
日本人は、「トップも人間であり、間違いを犯す」「意見対立が存在することこそ健全な組織の証拠」と認識を改めない限り、何度でも同じ過ちを繰り返すであろう。

民主党はせめて省庁とマスコミの癒着を排し、情報公開の推進だけでも完成させるべきである。
ニックネーム ケン at 12:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政局ほか

2012年01月25日

1/2月の読書計画

正月休み、新年会、通常国会開会などが重なって、なかなか読書に集中できないが、欠かしてはならない。
さらにもう1、2冊は行けそうだけど、未定。

『旗本御家人』 氏家幹人 洋泉社(2011)
さすがに260年間ともなれば、旗本・御家人にもいろいろな人がいたんだな、と。良いイメージばかりが語られる武士だが、実際にはチンピラもいれば、大悪人もいたし、若い頃に道を踏み外した後、改心して出世した人もいたことが分かる。庶民出身者も多くて、意外と幕府は寛容だったようだ。遠山金四郎がお調べに臨んだ際、証人として出てきていた吉原の遣り手婆に「あんた金さんじゃない!」と大声で叫ばれたものの、怯むことなく「なんだ、お前まだ現役だったのか。サッサと足を洗え」とやり返したという話は本当にあったらしい。超笑える。時代劇にあるような「背中一面の桜吹雪」はウソにしても、二の腕の入れ墨くらいはあったとしてもおかしくないようだ。実際に彫り物があった旗本で奉行まで出世したものもいたという。

『戦国関東の覇権戦争』 黒田基樹 洋泉社(2011)
近畿・中部からの天下統一を前提に語られがちな戦国時代だが、関東の政治情勢と勢力の推移について概観した貴重な書。新書なので手軽なのもありがたい。最新の研究を踏まえつつ、(後)北条氏が勃興した当時の情勢に始まり、北条氏の勢力拡大と足利・上杉氏との抗争、さらには長尾・上杉氏の関東侵攻、武田氏・今川氏との関わりを描いていく。鎌倉公方と関東管領家の権威の強さと内部分裂に始まる没落、それに伴う室町体制の瓦解、戦国戦争の勝敗のカギを握っていた国衆など、戦国期を理解するための重要な要素が満載。戦国ゲーマーは一読しておくべきだろう。ただし、もっと地図が欲しかったし、掲載されている地図も分かりづらい。

『中世武士団』 石井進 講談社(2011)
原書は1974年で「新しい」とは言えないが、文書だけでなく考古学や民俗学の手法を援用しての考察やイエの発展と衰退を通してみる視点は、今日なお古びることはない。鎌倉武士団の家族形成やイエの構成を見ながら、小早川氏と朝倉氏の繁栄と衰退を例に挙げながら、中世日本の武士団がいかなる社会層であったかを考察していく。長子相続制でなかったが故に相続問題や一族間紛争が絶え間なかったこと、朝廷から権限を奪って幕府に集中していく過程で、利害調整の裁定を全て武士が執り行うことになって、幕府の機能が変化するともに、武家と寺社の対立が深刻化していったことなど、勉強させられることが多い。

『山縣有朋の挫折 誰がための地方自治改革』 松元崇 日本経済新聞出版社(2011)
先頃、内閣府次官に就任した財務官僚である松元氏の新著。超多忙なはずのエリート官僚のどこにそんな時間があるのかと思うほど濃い内容。陸軍と官界を牛耳って、民選議会に真っ向から対立した有司専制の権化として知られる山縣だが、実際には地方自治制度の根幹をつくり、「立憲の学校」にしようとしていたことが明らかにされる。また、明治政府=中央集権のイメージが非常に強いものの、当時の英仏と比較して、自治の自主性においてはむしろ強かったという。それは、今日の我々が考える以上に、江戸時代の制度が継承されていたがためだった。さすがに財務官僚なだけに財政の記述が多く、馴染みのない制度・法が多いこともあって、容易とは言えない。だが、現代の地方自治と分権を考えるにあたって、避けては通れない部分であろう。山縣が地方自治を諦めたのは、日露戦争における戦費調達のための増税に強く反発した議会と地方を抑え込むためだったという視点も重要。

『アニメ・漫画で地域振興』 山村高淑 東京法令出版(2011)
勉強会のテキスト。鷲宮町、上田市、白石市、境港市などにおける、アニメ・マンガをネタにした町興しの経緯を具体的に紹介しつつ、まちづくりやコミュニティのある方を考えていく。70〜80年代の「ハコモノつくれば解決」的な発想ではなく、住民が企画段階から参加していくプログラム形式が求められている。最近なら、『花咲くいろは』の湯涌温泉(金沢)と、『輪廻のラグランジェ』の鴨川(千葉)だな。

『国民皆保険はまだ救える』 川渕孝一 自由工房(2011)
表題はあくまで著者の希望。現実は、超高齢化社会にあって、社会保障の充実に伴い、現役層の負担が一方的に重くなり、共助システム自体が維持困難になりつつある。予防医療へ重心を移すことが不可欠だが、既得権益層である医師会や製薬業界、それに患者自身の反対もあって、自縄自縛に陥っている。民主的議会制度の下では、より多くの票を集めたものの意向が政策に反映されるだけに、根本的な制度改革は非常に難しい。それを強行するには、欧州諸国における死刑廃止と同じく、強力なリーダーシップ・政治主導が不可欠だが、政治に対する信頼が極度に低い日本ではそれも望めない。個人的には、医療費のモラルハザードは税金が投入されているからで、税金でいくらでもつぎ込めると思われているからこそ、乱用に歯止めがかからず、自己負担も上げられない構造になっている。私としては、いっそのこと診察料も薬剤料も自由化して、保険と自己負担のみでまかない、公的保険適用額には上限を設けるべきであると考えている。
ニックネーム ケン at 12:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学問、文学、教育

2012年01月24日

増税のために定数削減?2

菅内閣・野田内閣の連中は本当に民主主義や議会制度を理解しているのだろうか?
「増税を行うためにはわが身を削るところから始めるべき」なるリクツは菅内閣の時から主張されてきたが、野田内閣に至ってさらに強硬になってきた。
一昨年も述べたが、議会定数は、その国家、民主主義、議会制度がどうあるかを議論した上で、適切な数が決められるものであり、「国会議員が多すぎる」「存在自体がムダ」という菅・野田・前原派の発想はまったく理解できない。

「定数80減」から得られるコストを、私は200億円と仮定したが、実際にはそんな削減は不可能らしく、現実には60〜80億円程度にしかならないらしい。
また、自民党が言う「歳費15%カット」は衆議院で16億円にしかならない。
それに対して、政党交付金は320億円なので、やるとすれば、交付金の20%削減の方がまだマシだ。

日本の人口あたりの国会議員数は他国と比較しても少ない方で、議員一人あたりの人口数で見ると、イギリスで5万6千人、フランスで6万6千人、ドイツで10万8千人、対する日本は17万5千人と、先進国の中では非常に少ない部類に入る。
先進国で日本よりも少ないのは、アメリカぐらいだが、米国は連邦国家であり、州議会の権限が圧倒的に強く、連邦議会で審議されるのは連邦単位の問題に限っているからに他ならない。故に、中央集権型の日本との比較は適当ではない。

国会は国権の最高機関であり、国会議員は国民の主権代行者に他ならない。
議会の定数を減らすということは、取りも直さず、主権を代執行するものが減り、より民意が反映されにくくなることを意味する。
議員が多ければ、少数の意見が聞かれる機会も増えるが、議員が減れば、逆に少数の意見は無視・軽視されがちになる。
そして、三権のバランスにも影響が出る。
立法府の縮小は、行政府に対するチェック機能や統制力を減退させる。
ただでさえ、霞ヶ関・国家官僚が圧倒的な支配力を持つ日本で、国会の機能を縮小させれば、ますます霞ヶ関の力が強くなり、一層集権化していくだろう。

これは、官僚にとってウハウハな話なのだ。
連中からすれば、国会議員のところにレク(説明)に行く手間が減り、問い合わせも減り、チェックされることも少なくなる。
国会での質問や質問主意書も少なくなるだろう。
何よりも、国会議員がますます多忙になって、その目が届く範囲が狭くなり、より楽に議員を騙せるようになる。
良いことずくめだ。だからこそ、財務省は「国民の理解を得るために」定数削減を強く進言、財務省に依存する菅氏と野田氏が同調する仕組みになっている。

今ひとつ、日本の国会定数の推移を見てみよう。
1889年に帝国議会が創設された際、衆議院の定数は300だったが、人口は4千万人強に過ぎなかった。
男子普通選挙制が導入され、定数が戦前期で最大になった時も、1925年の466で、人口は6千万人だった。
なお、戦前は衆議院の他に貴族院がある。
戦後は、沖縄などを除く地域で定数466で再開、人口は8千万人強だった。
戦後期で定数が最大になるのは1986年の512、人口は1億2千万人。
人口は1980年代後半から殆ど変わっていないのに、議員の定数だけ512から400にしようとしていることが分かる。
国家公務員の数は数え方にもよって異なるのだが、約100万人であり、国会議員と公設秘書に議会職員を加えても1万人にもならないことを考慮しても、立法府が大きすぎるとは到底言えないはずだ。

「どうせ国会議員なんて働かないから少ない方がよい」といった議論がまかり通っている。
しかし、議員を減らせば減らすほど、立法機能は低下するわけで、法案作成をますます官僚に任せるようになる上に、法案のチェック機能も低下するのだから、本来国会議員が務めるべき仕事はますます果たせなくなってしまう。
「チェック機能の低下」は、部門別委員会(総務とか厚労とか)の人数から説明できる。
仮にある委員会の定数が30であるとすると、定数80減に合わせた場合、その定数は25になる。
議員内閣制は、議会の過半数を占める政党が政権を担うため、現在のケースだと委員会30人のうち民主党が占めるのは約20人で、残り10人が野党という配分。
しかし、この定数が25になるということは、与党が17、野党が8くらいになることを意味する。
政権党の議員は政府提出の法案を拒まないのだから、チェック機能を果たすのは野党のみ。
つまり、野党議員が20%減るということは、理論上、政府に対する法案チェック機能が20%低下することに相当すると言える。

また、民主党は比例区の80削減を主張しているが、比例部分が180から100になれば、小政党のほとんどは1ないし2議席になるだろう。
現状でいえば、民主と自民が議席の大半を獲得し、KMが数議席、他の諸政党が1議席前後で並ぶという形になり、殆ど比例代表の意味(民意を反映した多党制)をなさない。
元々、90年代の政治改革論議では、完全小選挙区制への移行を前提とし、比例部分は元気変緩和措置に過ぎなかった。
本来の議論を継続するならば、比例部分の全面廃止と完全小選挙区制への移行、つまり480の小選挙区制こそ主張すべきだ。

議員歳費の削減は、ますます一般人の国政参加を難しくするだろう。
立候補しようとするのは、資産家か巨大組織をバックに持つもの、あるいは一発逆転を狙う山師のような連中に限られてくる。
現状でも、真っ当な人間ならば、安定した職を辞して丁半バクチのような選挙に出ようなどとは思わない。
定数を削減すれば、バクチ性が高まるのだから、ますます落選しても困らない人しか出なくなるのは必定。

デモクラシーの充実、即ち民意の反映と行政に対する監視機能の強化を求めるならば、むしろ定数増や選挙制度改革、国政参加のハードルを下げる改革(例えば元職復帰原則の法制化)などを行うべきであり、国政の効率化という点ならば、衆参の機能分化や会期制の廃止を検討すべきである。

現在の根拠なき定数削減と歳費削減は、日本のデモクラシーをさらに劣化させ、官僚主導をさらに強化していくことになるだろう。
有司専制が復活する日は近い。
ニックネーム ケン at 17:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治思想、理念

2012年01月22日

レッスン16回目&ピラティス体験

前回は年明けということもあって、体が鈍りまくっていたが、今回は毎日のストレッチも復活し、ピラティスのレッスンも受けたりして、調整は万全。
そのかいもあってか、先生にもお褒めに与る。「股関節も軟らかくなってきたじゃない」と。

ストレッチの効果が上がってきているのは確かだが、恐らくはピラティスの影響もある。
ピラティスの報告まで書いている余裕がないので、ここで触れておく。
ピラティスの個人レッスンは、個々人の体の状態と要望に合わせて、先生がプログラムを組んでくれる。
私の場合は、「バレエする体」「体幹を鍛えてバランスを取る」と目標がハッキリしていて、自分でも意識しているから分かりやすい。
とにかく体の歪みを直して、重心を真っ直ぐ取れるようにすることが目標となる。

ピラティスは、ヨガからスピリチュアル性を除去して、より科学的に、よりストレッチを重視している。
しかし、ストレッチと違うのは、「体を軟らかくする」「筋肉を鍛える」ことが(直接的な)目的ではないということ。
ピラティスは、個々人の目的に合わせて目的が設定されるが、最大公約数的に言えば、「バランスの取れた健康的な肉体をつくる」「自らの身体に対する意識を高める」「自らの意識で身体を制御する」ことが目的と言える。

人間は効率性を追求する余り、全体のバランスが放置される傾向がある。
腕力を鍛えようとするあまり、持久力が無くなってしまったり、腕を酷使して腱を痛めてしまったり、といった不具合が生じやすい。
これは、普段の生活でも同じで、私の場合でも、脚の外側の筋肉(大腿筋)ばかりを使って歩いたり走ったりしてしまっている。結果、内側の筋肉(内転筋)は使われることなく鈍っていく。すると、脚が大腿筋に依存して外側に引っ張られるようになり、がに股に近くなっていく(私はそこまで行ってないが)。それは、バランスにおいて外側にズレ易くなると同時に、大腿筋の酷使による筋肉痛や疲労、そしてバランスの悪化による腰痛へと繋がっていく。
言うなれば、大腿筋と内転筋という2人の正社員ではなく、大腿筋は正社員で内転筋はアルバイトにした結果、大腿筋の残業が膨大なものになってしまっている感じだ。
ピラティスでは、この状態を良くないものとし、大腿筋も内転筋も均等に使うことで、バランスを回復し、すると腰痛や膝痛もなくなっていく、引いてはストレスも減少していくという見方をする。

しかし、普通の人間は別に筋肉を意識して歩いているわけではない。
急に「内転筋も駆使して歩くように心がけましょう」などと言われても無理な話。
そこでピラティスが登場する。
インストラクターの指示に従ってエクササイズを続けていくと、意外なほど簡単に筋肉や骨の使い方が意識できるようになる。
そのエクササイズも、フィットネスジムの筋トレやストレッチとは異なり、重いものを上げ下げしたり、痛い思いをすることは全くなく、一時間個人レッスンを受けても、じんわり汗ばむ程度のことしかしない。
呼吸を気をつけることと、ゆっくり意識しながら動かすことが重要になる。
最初は、自分でも何をしているか分からない感じだが、慣れてくると意識できるようになる。
インストラクターが体の構造や筋肉・骨の繋がりを説明してくれるので、普通の頭がある人なら、自分がどういう状態にあって、何をしなければならないか、理解できるだろう。
大事なことは、自らの身体を意識して自ら制御できるようになること。禅で言うところの「自律」あるいは「自在」であろう。

ピラティスを何回か受けて、バレエのレッスンだけでは漠然としていた、股関節や内転筋が意識できるようになったのだ。
体の構造を理解し、自らの身体を意識しながらレッスンを受けると、その効率は格段に上昇する。
ダンサーの皆さんが、ピラティスを奨励するのはよく分かる。
私も暫くはバレエとピラティスの二本立てで、老朽化した肉体の再編と身体意識の向上を図りたい。
ニックネーム ケン at 23:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | バレエ日記

2012年01月21日

岡田副総理が意味するもの

「創作と空想の世界だ」などと韜晦していた岡田克也氏がアッサリと副総理に就任。
野田総理が直々に繰り返し要請したというその人事からは多くのことが読み取れる。

副総理が担当するのは、社会保障と(消費)税の一体改革、そして行政改革の2つ。
ほとんど正面戦線の全権を委譲されたような形である。
これは、派閥や人脈のしがらみを持たず、火中の栗を拾うことを躊躇しない、打たれ強い性格によるところが大きい。
誰に何を言われても何とも思わない(少なくとも外見上は)岡田氏を正面に据えることで大きな余力を得、総理は他の問題に傾注できるようになる。確かにこの役が務まるのは、現在の民主党において岡田氏の他はいない。
つまり、野田総理は、妥協の選択肢は残しつつも、基本的には正面決戦・正面突破しか考えていないことを示している。

3月から4月にかけては、政局的に大きな山場を迎える。
一つは予算と関連法、二つは消費増税、三つは小沢裁判の結審である。
野田総理は数々の発言から分かる通り、野党の反発や世論調査の結果に比して、きわめて強気な態度を続けている。
これは、それだけ財務省の後ろ盾(支援の担保)が強固であることを示している。
野田氏は、最初の組閣時に岡田氏を財務大臣として就任要請しているが、固持された経緯がある。
岡田氏は元々財政健全化論者であり、財政均衡を至上の正義とする財務省との相性は悪くない。

財務省には悲願がある。
表向きは「財政健全化の達成」であるが、その深層にあるのは「失われた主導権の奪回」。
旧大蔵省は、戦後の内務省解体を受けて、省庁の序列トップになり、自民党の丸投げ体質に支えられて国家の予算編成を独占してきた。
だが、90年代に相次いだ金融スキャンダルなどで権威を失墜させ、橋本行革で財務省と金融庁に分割され(金融行政の分離)、予算編成権についても制約が課された。
池田勇人の揮毫による大蔵省の看板が下ろされる時、無数の大蔵官僚が涙して復讐を誓ったと言われる。
主導権の喪失に伴い、財政政策も金融政策も猫の目のように変わるようになり、国家財政の悪化を放置するところとなったが、2000年代には主導権の回復には至らなかった。これは、小泉・竹中コンビに対抗し得なかったことと、他の省庁が足を引っ張ったからという側面がある。

どうやら財務省はハナから鳩山内閣をターゲットにしていた節がある。
鳩山内閣は、対米従属路線からの転換を忌避する外務省と防衛省によって陰謀をめぐらして自ら日米交渉を挫折させる一方、鳩山氏は自ら「沖縄問題」という地雷を踏んだことによって崩壊した。
だが、財務省は直接倒閣には荷担しなかったものの、「次」を見据えていた。
財務省にとって、民主党政権は「善し悪し」だった。
良い点は、財務省の主導によって他省庁の事業を仕分けして権限を振るえたこと。実際には、事業仕分けは微々たる成果しか挙げられなかったが、財務省の威光を取り戻す効果はあった。
悪い点は、民主党が「予算の総組み替え」を主張して、特別会計に手を突っ込む恐れがあることだった。
小沢氏は国の予算の構造と問題点、そして大蔵省の権限の強さを熟知していた。それだけに、鳩山=小沢コンビが政権中枢にある限り安泰とは言えず、排除する機会を窺ってきたが、勝手に潰れてくれた。
だが、財務省の油断ならないところは、早々に菅氏に接触して、「次」を狙っていたことだった。

2010年1月に菅氏が鳩山内閣の財務大臣を藤井氏から引き継いだ際には、早々に財務省高官が「普天間問題には関わらない方がよい。鳩山内閣はこれで潰れる公算が高い」と耳打ちしていたという。
「反鳩山」と「鳩山では参院選に勝てない」という論調を煽ったのは、主に外務省だったが、裏では財務省が動いていたはずだ。
鳩山内閣の副総理でもあった菅氏が、沖縄・日米問題に無関心を貫いた結果、次の総理の座を射止めた。菅氏にはベテランの秘書はおらず、その政局情報は全て財務省に依存していたが、それがことごとく的中したため、菅氏は財務省にその身を委ね、財務省の奉公に対する御恩として参院選で「マニフェスト見直し」と「消費増税」を打ち上げた。
その菅内閣で財務大臣に就任したのが野田氏であり、政権運営に早々に行き詰まった菅氏を、財務省はアッサリ見捨てて野田氏に鞍替えしたらしい。
財務省の至上命題は、「財政健全化」と「霞ヶ関の序列一位」であり、それが担保されるならば、総理のクビが誰かなど全く関係ないのである。

以上を考慮すると、岡田氏はやはり野田内閣=財務省主導内閣の人柱であると同時に、もし小沢氏に無罪判決が出た際に、小沢派が復権して要求を拡大してくる時の防壁としての役割が望まれていると見るべきだ。

4月にも結審されるであろう裁判は、小沢氏に不利に進められており、有罪判決が出た場合、小沢派は完全に沈黙、選挙となれば雲散霧消するであろう。
だが、万が一にも無罪判決が出た場合、小沢派は息を吹き返し、反消費税を訴えて、自民党の若手と連携、内閣不信任案を軸に、離党・政界再編を試みる可能性がある。
(仮に)無罪となった小沢氏に対して、野田氏自身が対抗するのは野党とのに正面作戦になることもあり、望ましくない。クリーンなイメージを持つ岡田氏を小沢氏の前面に出すというのが財務省=野田総理の狙いであろう。
「小沢氏か岡田氏」という選択肢ならば、民主党内の過半数も岡田氏を支持するからだ。

総選挙のからみで言えば、野田氏のホンネは「早めに選挙をやってしまった方が良さそうだ」ということらしい。
と言うのも、消費増税の是非を争点にして選挙を行った場合、先の参院選で同じことを主張した自民党が「増税反対」に転換することは難しく、転じたならば、マスコミに非難させればお仕舞いという話に過ぎない。
今の時点でも自民党は、「オレたちがやる増税はOKだが、民主党の増税はダメ」という主張になってしまっていて、到底論戦に勝てる状態にない。
また、二言目には「解散・総選挙を」と訴える自民党だが、その内実はすこぶるお寒いものらしく、地元の党員や秘書に言わせると、「かつての支持団体がまったく動いてくれず、お金も全くなくて、とても選挙できる状態にない」という。
元々自民党は、財界と米国からの政治資金と、地元の利権団体の人的動員、マスコミの援護射撃によって選挙を戦ってきたが、いまやそのどれも無くなってしまったがために、本当に候補者と秘書だけの選挙になってしまうようだ。
そして、谷垣総裁の統率力と発信力の弱さも祟っている。
野田派の議員連中は、財務官僚の助言もあるのか、「谷垣総裁のうちにやってしまえば負けることはない」と鼻息が荒い。
確かに、いま選挙をやれば、政権交代が起きて増税論議がゼロに戻ってしまうことを恐れる財務省が、必死になって自公のスキャンダルを流してくれるに違いない。
仮に、選挙をやって議席を減らしたとしても、民主党が過半数を獲得すれば、少なくとも野田内閣は「国民の信任」を得た形となって、権力の正統性を確立できる。それは、財務省にとっても好ましいことだ。

恐るべきは財務省の情報力であり、それは実質的に機能していない内閣調査室に代わる能力を有している。マスコミが煽る「解散風」すら財務官僚の差し金やもしれない。
万が一、解散・総選挙となって、民主党が勝利し、野田内閣が存続することになれば、それは財務省の勝利であって、有司専制の復活を意味する。
定数削減と歳費削減が実現すれば、ますます国会のパワーは低下、相対的に霞ヶ関が強化されていく。
その一方で、与野党の不毛な対立の末での解散・総選挙に、国民の多くはますます議会に対する信頼を失っていく。さらなる議会の縮小が求められるかもしれない。
もはや日本の議会は形骸化し、霞ヶ関が出してくる法案に賛成するだけの機能しか持たなくなるであろう。
昭和初頭にも匹敵するデモクラシーの危機である。
ニックネーム ケン at 01:02 | Comment(5) | TrackBack(0) | 政局ほか

2012年01月20日

グスタフ・レオンハルト氏が逝去

グスタフ・レオンハルト氏が逝去。享年83。
知る人ぞ知るチェンバロ、オルガン奏者で、バッハ演奏の第一人者でもある。オランダ人。
09年のリサイタルには私も行き、80歳にして衰えを感じさせない職人芸に舌を巻いたものだった。昨年もリサイタルがあったのだが、「バッハじゃないからいいや」と敬遠したのが災いしてしまった(泣)

その最高傑作(演奏)は『フーガの技法』だと確信している。

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『バッハ:フーガの技法&クラヴィーア練習曲集第2巻 』 G・レオンハルト BMG(2005)

録音自体は古いものの、音質は悪くない。
『フーガの技法』は、鍵盤楽器用の作曲形式ながら、楽器の指定がなされていない。
そのため、現在でもチェンバロ、オルガン、ピアノ、弦楽重奏などで演奏・録音されている。
また、最後の一曲を残してバッハが死去したため、未完に終わっている。
グールドのオルガン版も何度も聴いたが、どうも私はレオンハルト氏のチェンバロ版が一番しっくりくる。
決して重厚長大ではないのだが、どんどん引き込まれていき、しかも底が見えないような不思議な感覚にとらわれる。
バッハが見たであろう古典音楽の深淵を感じることができるはずだ。

レオンハルト氏の御冥福をお祈りします。
ニックネーム ケン at 12:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | サブカル、音楽、アート

2012年01月19日

消費増税をめぐって

16日に開かれた民主党大会における野田代表の挨拶。
「社会保障と税の一体改革をやり抜くことなく日本と国民の将来はないと確信している」

「一体改革は聖域なき行政改革、政治家自らが身を切る政治改革を実行した上で必ずやり抜く」

「肝心なときにぶれる道は絶対にとらない」

「不毛な政局談義はやめ、大局に立って身を捨てて国民に奉仕をすることが民主党に一番求められている」

さて、次はこちら。
「天下り根絶無き巨大消費増税」は絶対に認められない。私どもの調査によって、ことしの五月に、平成十九年度のお金の使い方でわかったことがあります。二万五千人の国家公務員OBが四千五百の法人に天下りをし、その四千五百法人に十二兆一千億円の血税が流れていることがわかりました。
これだけの税金に、一言で言えば、シロアリが群がっている構図があるんです。そのシロアリを退治して、働きアリの政治を実現しなければならないのです。残念ながら、自民党・公明党政権には、この意欲が全くないと言わざるを得ないわけであります。

2009年7月14日、衆議院本会議における麻生内閣不信任案に対する野田氏の賛成討論である。
果たして天下りは根絶したのか?シロアリは退治したのか?働きアリの政治は実現したのか?
今回の増税は「ブレ」ではないのか?
福田・麻生内閣に対する数々の問責決議は「不毛な政局談義」ではなかったのか?
突っ込みどころ満載である。

議員定数削減も歳費削減も、政治改革だった話が、いつの間にか「増税を認めてもらう生け贄」にしてしまった。
「代表無くして課税無し」は議会政治の根本であるが、課税を認めてもらうために国民の代表者の数を減らそうなどという提案は、議会政治とデモクラシーの首を絞めるものでしかない。
歳費削減も度が過ぎれば、企業家や資産家、あるいは自暴自棄で一発逆転を狙うものしか国会議員を目指さなくなるだろう。現時点でも、国会議員は国民年金しかなく、失職と老後に備えて、現職期に必死に貯め込んでおこうとする傾向がある。
ムダなのは、衆院と参院で同じことを二度審議するシステムであり、衆参の役割分担・分化なくしては、政局の安定化も審議の効率化も実現しない。

私自身は、増税か社会保障の切り下げの2択しかない状況にあって、増税を是とする立場を取っている。
しかし、野田政権の増税案は「財政再建ありき」で大局的な視点が無く、将来の見通しも無く、極めて危ういものになっている。

「大局的な視点」とは全体の構想を指す。
総理は「社会保障との一体改革」を唱えているが、社会保障改革はまったく進んでおらず、その経費は肥大化の一途を辿っている。
高齢化の進展に伴う社会保障費の拡大そのものは回避できないが、現状の垂れ流し=医療等のムダ遣いに歯止めをかけることは可能なはずだ。
高齢者の窓口負担増や、現物給付から還付制への移行なくしては、壊れた風呂桶にお湯を注ぎ続けるような話になってしまう。
現在の増税案で増える税収は10〜12兆円だが、社会保障費は毎年1兆円ずつ増加、不況に伴う税収減もあって、増収分は10年と保たずに使い切ってしまうだろう。

また「将来の見通し」で言えば、復興で所得税が増税され、各種保険料も値上げが続くことを考えれば、現役・若年層の負担はますます重くなる。
民主党は、日本の社会保障制度における高齢者優遇(世代間格差)を是正すべく、「子ども手当」を導入したが、これも当初2万6千円が約束されていたにもかかわらず、現在では1万円にされてしまい、扶養控除の廃止を考慮すると、大部分の世帯で負担増になってしまっている。
これは、若年層への再分配がなされない一方で、高齢層の権益のみが守られる構造を意味し、若年層の勤労意欲や将来設計を大きく阻害するであろう。
すでに団塊ジュニア世代が出産適齢期を過ぎ、今後はますます出生が少なくなることが予想されるが、この時期に子育て世帯への支援を放置すれば、少子化を加速させることになる。
少子化の加速は、高齢層を支える現役層の急減に直結、賦課方式の年金制度は破綻へと向かっていくことになる。
「子ども手当」は、医療費や年金を削ってでも、震災復興を少々先送りにしてでも維持すべきだったのだ。そうでなければ、せめて保育所と幼稚園の実質無償化を政策化すべきだった。

日本経済全体で見ても、「財政再建のための増税」は危険がある。
デフレ下にある日本では、現金こそが最大の価値を持っているが、国民の給与所得は減少の一途を辿っている。
ここで増税すれば、収入減と増税のダブルパンチで、さらに国内消費が落ち込む。
落ち込んだ国内消費分を取り返すために、輸出を増やそうとするが、超円高のために、さらなる賃金・下請代金の引き下げをもって価格維持が図られ、デフレがますます深刻化する構造だ。
これを回避するために、政府・日銀は為替介入を試みるが、不良債権が増えるだけに終わる。
やるとすれば、覚悟を決めて、お札を大量に刷り、国内の公共事業を大幅に増やすくらいしかない。
詳細は次の記事に回したいが、いずれにせよ、デフレ対策・インフレ政策を伴わない増税は、不況を深刻化させた上に数年で効力を失ってしまう公算が高い。
改革の全体像と将来設計の提示を伴わずに、ただ「税収が足りませんから」と言って、しかもその端から巨大ダムを造ったり、新幹線を引いたりすると言うのだから、国民の理解を得られないのは当たり前だ。

日本は危機的な状況に直面しつつあると言えよう。
ニックネーム ケン at 12:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 財政、社会保障

2012年01月18日

東京バレエ団 ニジンスキー・ガラ

すっかり遅くなってしまったが、報告しないわけにはいかない。
東京文化会館に東京バレエ団の「ニジンスキー・ガラ」を観に行く。
かのマラーホフがバレエ・リュスの演目を踊るというのだから気絶もの。
だが、私の情報網からは漏れていて、知ったのは特別チケット(余剰分の値下げ放出)の宣伝メールが来たためだった。
演目と出演者を考えれば、宣伝不足の線は否めない。
左端ではあったものの、一回の前から10列目くらい。東京文化会館のS席なんて座った経験がない私的にはドキドキもの。

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『レ・シルフィード』
振付:フォーキン 音楽:ショッパン
プレリュード:吉岡美佳
詩人:ウラジーミル・マラーホフ
ワルツ:佐伯智香
マズルカ:奈良春夏
コリフェ:矢島まい、川島麻実子

初演はマリンスキー劇場だが、フォーキンがバレエ・リュスに移って現在の形に。
20世紀の演目にしては、かなり古典的な振付。
白のチュチュを着た妖精たちの群舞は美しかったが、全体的に穏やかで古さを感じさせてしまう。
最近の日本人バレリーナは、すっかり西洋人と体型的に変わらなくなって、背も高くて、手足も長く、踊りが栄える。
自分でバレエを習いだしたからこそ分かるが、音も立てずに着地し、あれだけの長い時間をポアント立ち続けるというのは凄すぎ。
しかし、全体的に体が大きくなっている分、群舞でズレが生じると非常に目立つ。若干、練習・調整不足が感じられる。
マラーホフはさすがに美しかったが、まぁ詩人役はマラーホフでなくても良かったかな、なんて。

『薔薇の精』
振付:フォーキン 音楽:ウェーバー
薔薇:ディヌ・タマズラカル
少女:高村順子

ここから3演目は初見。バレエ・リュスには昔から興味があったにもかかわらず、なかなか機会がなかった。
想像していたよりも古典的な振付。
タマズラカルはマラーホフ一押しなだけに確かな技量で、体も大きいだけに舞台映えする。
が、「薔薇の精」としてはいささかマッチョな気がしないでもない。
美術や衣装もバクストのオリジナルに似せており(薔薇の精の花はプリント?)、できるだけ当時のものを再現しようという意図が見られる。
高村さんの少女役は愛らしいけど、メリハリが利いていて良い感じ。

『牧神の午後』
振付:ニジンスキー 音楽:ドビュッシー
牧神:後藤晴雄
ニンフ:井脇幸江

当時も評価が二分されたらしいが、確かに微妙。
基本みんな横向きで、ジャンプやターンも無い。かといって、今から見て斬新さが感じられるわけでもない。
歴史的価値ということか。
結構、母と娘のペアで来ている人がいたけど、自慰で幕が下りる『牧神』といい、三角関係の果てに殺してしまう『ペトルーシュカ』といい、教育上微妙な気がする。子どもには分からないかもしれないけど……

『ペトルーシュカ』
振付:フォーキン 音楽:ストラヴィンスキー
ペトルーシュカ:ウラジーミル・マラーホフ
バレリーナ:小出領子
ムーア人:森川茉央
シャルラタン:榎本弾

ストラヴィンスキーのこの曲はやはり良い。
『ペトルーシュカ』はさすがにバレエの進歩の片鱗が見られる。
マラーホフはなかなかの演技派だった。人気の元はこんなところにもあるのかもしれない。
でも、私的にはバレリーナ役の小出さんの熱演に目が行っていた。あれだけ動いて、ピタッと止まるのはどういう体なんでしょ?
しかし、群舞は意外と長くて退屈……

全体的には『薔薇の精』が一番良かったかな。
もう一回同じプログラムを見たいかと聞かれるとビミョーだけど……
ニックネーム ケン at 12:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | バレエ日記
プロフィール
名前:ケン
年齢:ガンダムは再放送だけど、Zは生で見た。
誕生日:李英愛さんと一緒揺れるハート
性別:スペード
職業:政治家(広義の)、日本語教師、フリーライター、占い師、写真家、その他
一言:永田町某所に勤務。

趣味:シミュレーションゲーム、TRPG、政治活動全般、バレエ鑑賞
スポーツ:水泳、乗馬
マンガ(古典):小池一夫、白土三平
マンガ(現代):FSS、クレイモア、ベルセルク、ガンスリなどなど
アニメ:攻殻機動隊、ボトムズ
哲学:バタイユ、オルテガ、墨子、王陽明(我ながらメチャクチャな組み合わせだが)
神秘思想:P・D・ウスペンスキー、R・シュタイナー
文学:澁澤龍彦、M・デュラス、ドストエフスキー、司馬遷
時代小説:司馬遼太郎、池波正太郎
特技:占い(修業中)、進路相談、人生相談(特技なのか?)
潜在能力:言霊(師匠曰く)

理想の男性像:土方歳三、サン=ジュスト
好きな俳優:丹波哲郎、山崎努
理想の女性像:メーテル
好きな女優:梶芽衣子、カロル・ブーケ、李英愛、栗山千明
好きな男性のタイプ:よく話す、頭の回転が速い、仁義にあつい
好きな女性のタイプ:カンが良い、寛容、知性がある
上司にしてみたい人:石田三成、大久保利通、草薙少佐、エーベルバッハ少佐

好きなクラシック:J・S・バッハ、ラフマニノフ、スクリャービン
好きな洋楽:ブリストル系(マッシブアタック、ポーティスヘッド、アルファなど)、ラウンジ系(イージーテンポ、イルマレコードなど)
好きな邦楽:書上奈朋子、Calm
好きなポップス:aiko、椎名林檎

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